【戦国の弟達】参《武田信繁》
兄を守る為に戦場の露と消えた弟 『武田信繁』
私は御館様である兄上、武田晴信(信玄)公の為に生まれてきたと思っている。幼少の頃から父上信虎は何かにつけて兄上を疎んじ、私を可愛がりたがった。しかし、私は兄上を差し置いて父上に可愛がられることを内心、恨んでいた。何故その情を兄上に分けることを出来ないのかと。私は父上が兄上をして私を跡継ぎにしたがっていたがあったと確信している。周囲も世継ぎ争いを懸念していたようだ。が、私には跡を継ぐ気などなかった。兄上の存在をした父上にをえてもいた。だから、天文10年(1541年)兄上が父上を追放した時も私は反対せずにと実行に移した。あの時の父上の私を見る時の眼差しが今も忘れられない。しかし、この方法以外に父上を討たずに済み、御館様に親殺しの汚名をお付けせずに済むようにするには追放という手段をとるしかなかったのだ。それから10年の時が流れ、天文20年(1551年)7月、私は城攻め将として、天文22年(1553年)4月には敵城を落城し、城主に任命する通達を出したのである。私の一存で決められるものではない。同様に攻略した村上方の城にも上位を通達した。この後、幾度も戦を繰り広げることになるのは必定であった。私はお館様の補佐役としても家臣の模範としても手本となるべく日々の鍛錬に勤しんだ。侮りを受けぬように、また己自身を高めるために自らを更に深める努力をした。命令するだけでは家臣も兵もついては来ない。お館様の弟という身分に甘えてはならない。すべての高みへの理由はお館様の為である。そして、永禄4年(1561年)川中島において4度目の戦が始まった。私は本陣にあってお館様を守るべく布陣した。敵味方入りれる乱戦の中で、本隊をお守りすべく我が隊は御館様本隊の前面に躍り出た。伝令に、私は言った。我が隊が時を稼ぐ間に勝利の工夫を。とお館様に伝えよ。と命令した。ここが私の死に場所になりそうだ。我こそは武田典厩信繁。我が首欲しくばかかって来るがよい。と、あらん限りの声で叫びながら敵を引き付けて、私は敵中に突き進んだ。お館様お許しくだされ。私の命はこの戦でお館様をお守りする為の命なのです。武田家に幸あらんことを……武田信玄の弟『武田信繁』享年37歳。
【戦国の弟達】[完]