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【戦国の弟達】壱【織田信行〈信勝〉】

織田信長の弟、伊達政宗の弟、武田信玄の弟の三部構成。それぞれの弟の主観・視点で物語を綴る。兄に殺された弟・兄を殺せなかった弟・兄を守る為に戦場の露と消えた弟の順番で構成。織田信行は兄を嫌い兄の始末を謀る。伊達政通は兄と母との狭間で苦しみ兄に斬られる。武田信繁は兄を敬い兄の副将たるべく家臣の模範となる努力を重ね川中島合戦で兄を守り討死する。彼等、戦国の弟たちの物語。

 

兄に殺された弟 『織田信行

 私は兄上が嫌いだ。兄上のうつけぶりも、そのうつけ者を愛でる父上も嫌いだ。あの兄上のもとで臣下として仕えたくなどない。私は、あの兄上を始末したいのだ。その為には、兄上よりも礼儀をわきまえて家臣たちの心を掴み、兄上をこえなければならない。もう兄上とは呼ぶまい。あの男、信長はただのうつけではない。うつけのふりをしているのだ。本当にうつけ者であれば私はとうに信長を始末できているはずだ。あの男は隙だらけの様で、隙が無い。信長は廃嫡されるべき存在だったはずだ。父上の葬儀があった天文20年(1551年)信長は父上の仏前にを投げつける暴挙をとった。私は正装をして礼儀正しく振舞った。私が次期当主に相応しいと思った者もいたはずだ、否、私こそが次期当主の座にふさわしいのだ。信長を討つその時が到来するのを私はひたすらに願い続けている。天文24年(1555年)私は、織田家の当主が名乗る『弾正忠』の官途を信長に対して無視して名乗った。あの男、信長よりも私こそ次期当主にふさわしいという私の宣言の意味もそこに込めた。それでも信長は私に目を向けることなく尾張の統一に邁進していく。私など眼中にも入らぬというのか。見ておれ信長。隙あれば私はお前を討つ。この年の6月、弟の秀孝が叔父・信次の家臣に誤って殺されたと報せが入った。ふざけるな。何が誤って殺しただと、許さぬ。私はすぐさま信次の居城・守山城の城下に攻め入り焼き払った。この時、信長は無防備に単騎で隙のある行動をしていた秀孝にも責任がある。とぬけぬけと言いおった。私の信長への憎悪は増すばかりであった。信長の心中はわからぬが、織田家の家臣は親族を尊重した私の姿勢を評価し、当主としての期待感を強くさせたようだ。信長、お前に織田家を好きにはさせん。弘治2年(1556年)4月、信長の義理の父である斎藤道三が嫡男・義龍に長良川で討死させられたとの報せが届いた。好機だ。私は、反信長派らを我が陣営につけ、憎き信長の首を手に入れるべく挙兵した。勝てるはずだった。しかし柴田権六が敗れ、林道具が討死という認めたくない惨敗であった。何故だ。何故に私はあの男に勝てぬ。私は自問自答のようにそれを頭で繰り返しながら、末森上に着き籠城した。結局、母上の取りなしで私と林秀貞・柴田権六共々許された。あの時の信長の冷たい眼差しが頭にこびり付いて離れない。次は無いとその眼が語っていた。ならば次が、私が信長を討てる最後の機会となるはずだ。弘治3年(1557年)、私は岩倉城の織田信安と通じてもう一度攻め入る手筈を整えていた。その後に信長が病床に臥せっていると報せが入る。柴田権六に、それはまことか。と問うと、左様にございます。信友殿も居ない今、信長殿を騙し、譲り状を書かせてしまえば織田家はあなたの者です。などと言う。思うに余りにも話が出来過ぎだと思った。真実であれどうであれ私は見舞いに行かねばならん。吉と出るか凶と出るか。11月2日私は城へ行き信長の寝室に向かう途中で、ここで待たれよ。と言われた。どうやら私の命運もここまでだ。私を殺めようと待ち伏せていたのだろう。とうに私の運は尽きていたようだ。私の不運は信長の弟であったことかも知れんな。とんだ貧乏くじだ。織田信長の弟『信行』享年21歳。