二十二位
『真田幸隆』
史実では信玄が亡くなった年と同じ年間に亡くなった人物。
真田昌幸は幸隆の三男である。
外様衆でありながら信玄に重用され、なかなか発言力があったようだ。
当時の平均寿命などを考えなければ信玄上洛行軍に帷幕の将として参陣して欲しかった人物。
三方ヶ原で家康に勝利した後に信玄が亡くなったとしても、
幸隆が「お屋形様の御遺志に背かれるか!」
などと重臣一同を挑発気味に奮起させて翌日に瀬田に旗を立てさせたならば、
京洛の地に武田菱の旗が立てられていただろう。
信玄の死を三年間隠すのは流石に無理だろう。
発覚したとしても、三年間持ちこたえるならば京の地まで攻め上り織田信長を駆逐し、
後々の不安要素を消すしかなかった。そこまでの判断を当事者が出来たかどうかはわからない。
真田幸隆の発言力ならば居並ぶ諸将も耳を傾け冷静に信玄の遺志を汲んで、
織田信長に痛打を喰らわせたに違いない。
何歳まで生きればここまで出来るかは割愛だが、多くの歴史ファンを魅了した幸隆ならば可能だ。
幸隆の健康・体力・気力この三つが十分あれば、上洛軍に参加できたであろうし、
三方ヶ原合戦で徳川幕府の命脈は絶たれていただろう。
史実が証明しているが徳川の天敵は真田なのであるから。